ご 挨 拶

仏様を親として「お寺と檀家、信徒は家族」と考えている、のんびりとしたお寺です。
妙教寺住職
北海道の北見市のお寺でで生まれ育ち、平成10年に妙教寺の前住職と役員さん達に招かれ住職となる。
北海道は冬の関係で、全ての寺院が納骨堂を持っているのが当たり前で、そこで生まれ育ったため納骨堂の歴史・作りに自然と詳しくなる。
妙教寺は『お寺と檀家、信徒は家族』と言う考えのもと、普段のお参りが行われているお寺であります。
今の時代、本当の家族であっても親は仕事、子供は塾や部活でそれぞれ帰りが遅く、中には家族そろって食事をする事さえなかなか難しい人たちが増えています。
その中でお互いを理解し合い、本当の『家族』として生きていくのに欠かせないのが「手を合わせる」という行いなのではないかと思います。
家族が揃って、同じ方向を見、同じ感謝の気持ちを持って、同じ行動が出来るということは、一つは同じ土台を持ってると言うことです。
共通の土台があれば、何かわかり合えないことがあったとしても、解決できる糸口が探しやすいのではないでしょうか。
10年ほど前、知り合いの弁護士さんから「少年犯罪をする子の中でも凶悪な犯罪をする子には、二つ共通点があるんですが何だと思います?」と聞かれたことがありました。
私は咄嗟に答える事が出来ず「何でしょうか?教えて下さい。」とお聞きしたところ、「一つは皆共通して家に手を合わせる所が無いんです。もう一つは、お爺ちゃん、お婆ちゃんとの交流がほとんど無いんです。」と言われました。
続けて「子供を育てる時は親も忙しいんですよ、教えなきゃいけないことも所々抜けてしまいがちで、そこをカバーしてくれるのがお爺ちゃんやお婆ちゃんですし、行けばお仏壇や神棚があって自然と手を合わせ、『感謝する』ことも覚えたんですけど、今は核家族化が進みすぎて、その機会が無い。
そうすると本当の意味での『感謝する心』を知らないが子育って凶悪犯罪に走るようで、面会に行って話をしても人としての大事な部分が抜けているもんだから、話が合わないんですよ。」「きっとこれからは、宗教者やお爺ちゃんお婆ちゃんの価値が見直される時代が来ると思いますよ、」と言われておりました。
昨今では手を合わせる場所の一つであるお墓も高額であったり、遠くてなかなか行く時間が取れないといった実情があります。
妙教寺ではご縁を頂いた方々に、家族の大切な人が「毎日お経が聞きながらお休みになれる場所」を、少しでも気軽に手を合わせられる様、「お求めやすく」「お参りしやすく」「安心できる」所として「納骨堂」といった形で40年前からご提供を致しております。
前に名古屋市にお聞きしたところ、名古屋市南区はもちろん、緑区。熱田区を含めても歴史ある納骨堂の様です。
家族の為にも、自分自身の為にも、もちろん大切な亡き人の為にも、身近に家族でお参りできる場所をお持ちいただきたいと思います。
最近驚いたことが有りました
昨日の午後、驚いた電話がありました。
名古屋市の衛生局の方からで、「実は今日名前を名乗らない、匿名の電話があって、妙教寺さんがiタウンページに出している広告のクレームで、公認納骨堂とうたっているのは変だという内容でして、妙教寺さんはきちんと許可を受けていらっしゃるので、問題ないんですが・・・」との事。
私「へ?どういう意味です?市から正式な許可を頂いてますから、名古屋市公認としてるだけですけど?」
「その人が言うには『名古屋市が後押ししていると勘違いさせる。』と言ったような話でした。そうではなくて、『名古屋市から正式に許可をもらっています』という意味でしょうと言っても、なっとくしなくて、しつこく言われたので、一応お伝えしておきます。タウンペ-ジの改訂の時が来たら言葉を考えられるのも良いのでは。」と言った内容でした。
担当の方が大変丁寧な方でしたし、ご自身も当惑されたようなお話をされておられましたので、「ご迷惑おおかけしてすいません、でもねえ少し納得できませんが」と言ったやりとりでお電話をお切りしました。
「公認=おおやけに認めること。国家・団体・政党などが正式に認めること」と辞書にもある通りで、「名古屋市推薦」『名古屋市推挙」と言ったことは一度もありませんし、iタウンページが出来てからずっと十年ほど出している広告でしたので、ただ驚くばかりでした。
どうしようかなと考えていたところ、本当に縁とは不思議な物で、突然知り合いが訪ねてきました。
私も関わっている案件のことで、預かっている書類を連れてきた人に見せてほしいとのことでした。
誰かと訪ねると「行政書士」さんでした。
一通り話が終わって、先ほどの電話の話をしましたら、笑って「同業他社の人じゃないですか?」と言われました。
私はまたもや「え?」
「匿名でそういうクレームを役所に付けてくるのは、だいたい『同業他社』の人間の嫌がらせが多いんですよ。」との事でした。
知り合いも「何かしようとすると敵が出来るもんですって、この前言ったでしょ。」と笑ってました。
私「でも、特別何かしようと思ってしてるわけでもないし?前から有る納骨堂のことを、困ってる人に少し知ってもらおうかと思ってるぐらいだよ。」
知り合い「それが都合が悪い、邪魔だと思う人間もいるんですよ。人が良いから。」とまた笑われました。
本当にそうなのかはわかりませんが、それを聞いて、怒ると言うより哀しくなりました。
私は聖人でも君子でも有りません。空気や水だけで生きてるわけでもありません。
でも、お坊さんとして、地域のお寺として少しでも困っている人の力になれればとは思っています。
前に身寄りの無い方たちがお困りだという話を聞いて、NPO法人を立ち上げ、今ではNHKなどにもたまに出る有名な全国組織にもなっています。
しかし、それで檀家を増やそうとか、金儲けしよう等と思ったこともなかったので、軌道に乗った今、現場を知らない私が居ても邪魔なだけだと思い、手はひいています。
いわんや、大切な家族のお骨をお預かりして、亡き人が安眠できて家族が安心できる大切な場所を提供する者が、お互い協力するならともかく、相手をないがしろにしようと企むとしたら。
そういう人間が「みんなの安心の為」でなく、「お金のため」に蠢(うごめ)いているのだと思うと哀しくなりました。
そうで無い事を祈るのみです。
2016/05/12